

反射と反転は、幾何学的には似たような形態の転位法だが、ことばとしてはかなり違っ
た意味に使われる。私のことばに対する感覚からすると、反射より反転の方がより高度
の方法をイメージさせる。反射にはすなおさがあって、反転には暴力的な操作がともな
う。私の建築的方法は、反転に向かう「反射性住居」が実現しているというのが妥当で
ある。
有孔体の理論において、もし孔が本質的な空間のイメージであれば、建築は孔そのもの
でなくてはならないだろう。孔とは入出力の制御機構であり、いってみれば閾である。
この場合、閾はある個体の内的秩序を維持するために、外界との交流をコントロールす
る装置や機構を意味している。そこで、閾の建築のもっとも普遍的な、つまりはもっと
も通俗的なシンボルは門であり、直立する2本の柱である。対峙する2本の柱の双対性、
反射性が、閾のもっともわかりやすく、歴史を通じて納得された孔の記号的表現の原理
である。この双対性または反射性を、全面的にとりいれるプランニングがシンメトリー
と呼ばれる。シンメトリーは、モダニズムがもっとも馬鹿にしたものである。今日的な
意味において、モダニズムが否定したシンメトリーに、新たな展開の契機が埋蔵されて
いると考えられる。
こうして、孔そのものの空間的表現としての建築のイメージは、反射なる概念をめぐっ
て出発したが、「ハレーション」は室内の空間の状態を決めるもっとも重要なイメージ
である。東洋的な暗示にとんだ闇に対して、暴力的で狂気にみち、非倫理的な表現とし
てハレーションは対置されるであろう。日常生活にあわせてハレーションをやわらげれ
ば、明るく感性的な住居空間となる。伝統的な住居に比べて、途方もない明るさをもち
こんでみる。もし、十分なスカイライトをとり室内を明るいグレイでしあげれば、室内
は感覚的には屋外より明るくなることは確かだ。
明るさの反転は、光の反射からひきおこされるが、ここで生じた内と外における反転は
たいへん重要な意味をもっている。なぜなら、造形のうえでの内と外の反転は、ただち
に導かれるし、室内をあたかも屋外のようにつくりあげる反転の方法の採用は、今日の
建築家にとって、好んで社会的な態度を表明する分岐点に立つようなものだからである。
もし、こうした造形上の反転が試みられるならば、従来の意味での建築的なファサード
は消える。なぜなら、ハードな表は室内であって、諸々の外観はソフトな裏になり、厳
密な意味で建物の主な部分だけが「外」になって、すべての外界は「内」になってしま
うからである。
この反転の社会的意味は、ひと言でいって、自己権力的空間像を強くおしだすことであ
る。住居はそれぞれに中心をもち、他のあらゆる空間はその住居に内包される。従って、
もはや、「社会的な」という表現は無意味になる。
多くの人々は、適当なモデルが少ないために、住居に対して錯覚をもっている。生活環
境の中心は、東京のような大都市の都心部にあり、住居はその末端であると思っており、
多くの住居はこうした倒立した空間認識のうえでプランニングされている。反転に向か
う住居は、逆に、都心部の諸施設や交通機関などを、住居内の道具類として備えている。
従って、住居をつくるということは、住居内に都市を埋蔵すること、つまり「都市埋蔵
計画」のリアライゼーションである。
自己権力的空間像は、シンメトリカルプランニングの歴史的な意味と符合するように思
われる。言ってみれば、管理社会に対するレジスタンスとしての住居が、反転の意味で
あって、それは単なる造形的なゲームではない。それだけに、反転の操作は難しいとい
える。「都市埋蔵計画」には、ふたつのイメージがある。
1)比喩的にあたかも都市が埋蔵されたようにつくること。
2)反転の意味に忠実に、外界が住居の内にあるようにつくること。
このふたつの手法は、実際には重なりあうであろう。このイメージを実現するためには
より多くの建築的な考察が必要なのだ。たとえば、シンメトリカルな反射性は、より巧
妙な配列がもつ反射性へと置換してゆかなければならないだろうし、そのとき、自己権
力の王政復古的な意味は、あらたな社会的意味へ転化されるだろう。
建築の空間認識として、上向的な空間に対するこれまでの一般的な好みに対して、反転
へ向かう建築は、下向的な空間を構える。私の建築が、初源的に孔の空間化であり、門
としての建築に向かうかぎり、そして反転したが故に出口がない孔として、上向的空間
にはなりえない。従来、人々が建築を山としてとらえる強い傾向に対し、反転に向かう
建築は谷であることを主張する。性格にいえば出口がない谷、クレバスなのだ。
建築は、視覚的でなく身体的であるのだから、「反射性住居」は、自然に対して過敏で
ある。それはたしかに、均質的にして自然をうつすという意味で対立する。と同時に、
一方において「吸収性住居」の存在を暗示している。「反射性住居」が生みだす中心的
部分つまり反転された「外」は、有機的でなく結晶体である。一方、ことばとしての建
築「吸収性住居」は、もし、日本の伝統的な建築像におぼれてしまわないとすれば、結
晶体でない空間を暗示している。もし、吸収性がフィジカルに実現すれば、それはもう
ひとつの空間があらわれるだろう。そのとき、反射から反転と直接的に移行するところ
にあらわれる自己権力的ユートピアが、そのような意味をもってあらわれるのだろうか。


