晩年、かれは繰り返し元初、始源(source)について言及している。はじめに、沈黙と光の思惟が至る場所、つまり元初の意味を明らかにしておく。心(mind)は最後期の思惟における根本語のひとつである。元初、つまり「未だ書かれざる第零巻(Volume Zero)」のイメージを求める心の出現にかれは驚き、元初をどこまでも問い求める自らの心に注目する。非現実なものを探し求める思惟の徹底主義。この方法的態度は、カーンの思惟の方法を基底づけるものである。心は、非実在的なものを問う超越論的主観である。すなわち次のように対化される。
mind        :超越論的主観
image (Volume Zero) :mind の志向的相関者
かれはまた、かれの主張の中で注意を促している言葉がいくつかある。
それらはbeginning,But,know,sense,Universal,eternal,natureである。つまり「元初は人間の<本性>を露呈する」と。reveal(露呈する)はカーンの頻用する語であり、discover,emerge,driveなどとともに事柄の現れをいう。ここで、2つの事象が区別され、対化されている。
eternal − univeral
nature of man − laws of nature
2つの事象を区別し、そして元初は二者のうちの一者、つまり「人間の本性」を露呈すると言われる。これはどういう事態なのか。そしてそれが関わる「永遠なるものとは」なにか。
元初の意味について、1959年のオッテルロー講演においてこう述べている。つまり始めと元初を区別しつつ、その差異と同一性について言う。

 始めの精神は、いかなることにおいても、いかなるときにも最も素晴らしい瞬間です。なぜなら、始めには後に続く全てのものの種子が横たわっているからです。ものごとは、そこから生起しうる全てのものを含んでいなければ始まることができません。それが元初の特性であって、そうでなければ偽りの元初なのです。

始めとは何かがとりかかりだすところであり、元初とは何かがそこから発言してくるところを意味する、というハイデッガーの元初についての言が、その意味を明示する。つまり、「始めは始まるや否や直ちに置き去りにされ、出来事においてが初めて表に現れ出て、その出来事が終わるときようやくその全き姿を現すのである。多くのことを始める者はほとんど現に至ることがない。ところで言うまでもなく我々人間には元初から元初にする[元初的に行う]ことはけっしてできない。−それは神の如き者のみの為しうるところである。−それゆえ我々は始めるほかない」と。
カーンのいう元初は、たんなる始めではなく、始めにしてそれに後続するものを最初から統べている「支配者たるもの」を意味する。それは、元初(アルケー)にして元首(アルコン)である。
 建築の出現の最古の者は、アルカイク期のパエストゥムの神殿であるとカーンは見ている。すなわちパエストゥムは、パルテノンをはじめ、パエストゥムの後にに続いている全ての驚異がその内に含まれている元初だと言われる。それは古きものの中の最古の者である。アルカイク期の彫刻トルソについての次の発言は、元初の本質特性を言い当てるものである。

 トルソの眼は見ることがない、しかし永遠に見つづけることができる。

カーンは言う。

  What was has always been.
  What is has always been.
  What will be has always been.
  (既在は現存である。/現在は現存である。/到来は現存である。)
既在、現在、到来、これら3つのときを統べる本来的なとき、すなわち「現存」が言われている。この第四のときが第一のとき、つまり元初であり、3つのものにそれら固有の現存をもたらすのである。  建築なるものが発現し現象する、生まれ出づる状態に立ち返り思惟するカーンの思惟は、建築なるものを、現象として思惟する現象学的思惟といえるであろう。「ときが経過し建築が廃墟になるとき、制作のスピリットが蘇るのだ」と言うかれの作品は、廃墟になる以前にすでにして廃墟に見えなくもない。