「秀巧社ビル」、「Y邸」の発表に際しての過去数年の磯崎自身の論文を引用しながら、
   現在の状況の認識と展望を論じたもの。
   近代建築が疑うべくもない究極の主題に設定したテクノロジーが必ずしもその絶対性を
   維持できなくなった。つまり、主題が消えてしまい、目的的な空間をテクノロジーを駆
   使して実現するという、明快なリアリスティックな思考プロセスが疑問視され始めてき
   た。このような状況の中で磯崎は、「主題が消えてしまったとき、それを空位のままに
   して、形式が自立しながら自己運動を続けること」というフォルマリストの姿勢し可能
   性をみいだし、「手法」というべき建築の形式を形成する技法の系に執着する。手法
   に執着し、それを駆使したあげくに、かつて所有していた意味が中性化し、無化し、つ
   いには手法の操作された過程が、痕跡として表面に浮かびあがってくる。その操作過程
   がまさに建築の修辞性をあらわしている。<手法論>から<修辞論>へ、あるいは修辞
   的手法への固執という、磯崎のなかで意識化した方法は、近代建築が自壊し、当然のこ
   ととして認めていた主題の不在さえ不明化した、空漠とした状況にたいして、建築を自
   立させることによって立ち向かおうとする一連の作業であった。建築が形態を持つなら
   ば、形態そのもので語らなければならない。修辞的操作によって、伴示的な意味を喚起
   できるものならば、その操作こそ徹底させるべきである。